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『野蛮の言説』を読んで ~なぜ、障害者を差別する言説が生まれるのか~

人はなぜ、人を貶めるようなことを言ってしまうのか。
同じ人間であるということを表面上は認めつつも、心の奥の部分で、どこか他人を軽んじていたり、馬鹿にしていたりする自分を発見することがあります。

そんなことを感じる中で、新聞の書評で「野蛮の言説」という本が紹介されていたため、興味が出て購入しました。
自分自身の暗部を、分解してみたいと思ったのかもしれません。

著者の中村隆之氏によると、野蛮の言説とは、「人間が人間を『野蛮な存在』と捉え、表象する言葉」であり、それがどのようにして生まれてきたのかという問題意識のもと、本書は書かれています。

そもそも「野蛮」とは何か、という話になりますが、これは「文明」と対比される言葉になります。高度に発達した文化や政治・経済、そういうものと無縁な人ということであり、平たく言うと「自分たちより下の人」ということになるかと思います。

本書では、そういった言説がもたらしてきた惨劇をさまざまな例をたどって説明しています。コロンブスの新大陸「発見」とそれに続くインディオへの迫害と虐殺、列強によるアフリカ分割とそれに続く原住民の奴隷化と虐殺、ナチス・ドイツの障害者虐殺とホロコースト、日本での朝鮮人虐殺と731部隊…。

現代に生きている私たちからしてみれば、それらを引き起こした人たちのほうがよっぽど野蛮だと感じます。しかし、その時代に、その地域で、その価値観で生きていた人にとって、それらの行動は、全く自然なこと、「野蛮」ではなくむしろ「文明」的な行動と考えられていたことが、本書では解き明かされていきます。

2016年7月26日の未明に起きた、「津久井やまゆり園」での事件も考察されています。私自身も福祉の業界に携わる人間として、植松被告がなぜあのような行動を起こしたのか、問題意識を持っていました。断片的に植松被告の弁術を、雑誌か新聞、ネットで読んだことはありましたが、理解できませんでした。しかし、本書を読んでよく分かった気がします。

著者は、「種の起源」を記したダーウィンによって完成された「ダーウィニズム」こそが、こうした一連の悲劇の背景にあるとしています。(インディオの虐殺の時代には、ダーウィンは存在していませんが、アリストテレスの奴隷論やキリスト教信仰者の聖戦論のようなものが、『野蛮の言説』を用意したとしています。)

一般的な進化論は、「自然淘汰」と「生存闘争」によって、動植物の進化を説明するものです。しかし、人間も動物であることから、人間の進化についても考察されていきます。

白人や黄色人、黒人など、いわゆる「人種」の序列化を科学的に行おうとされました。現在では単一人種が科学的に証明されており、複数の人種の存在は否定されていますが、進化論が提示された19世紀は、白人を頂点とする序列化が、骨相学や優生学という「科学」に基づいてなされていきます。

また、人間の社会にもダーウィニズムを適用し、西洋をもっとも優れた社会として序列化していく思想が展開されていきます。これはまた、政治や経済、文化などの「学問」の力を借りて行われていくわけです。これらは社会的ダーウィニズムと言われます。

ひとえに、一見「科学」を基礎としている、正しいと思われる基準から、人間や社会の優劣を論ずるダーウィニズムの態度が、野蛮の言説を生み出し、それがジェノサイドを引き起こし正当化するというわけです。

津久井やまゆり園の事件を起こした、植松被告の大島衆議院議長宛の手紙には、まず「障害者は人間としてではなく、動物として生活を過ごして」いるとして、健常者と障害者を二分法で考えます。このままでは不景気による第三次世界大戦が起きると予測し、「戦争で未来ある人間が殺されるのはとても悲しく、多くの憎しみを生みますが、障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができ」ると断言します。健常者は「未来」があるものの、障害者は存在しないことが社会のためであるという、優生思想という野蛮の言説がここでも頭をもたげているのです。

優生思想を徹底した結果、ナチス・ドイツでは障害者をシャワー室(=ガス室)に送り、なるべく苦しまないように殺し、家族には嘘の死因で報告するという障害者の虐殺が起きました。この手法が、やがてそのまま、ユダヤ人のホロコーストにつながるという恐ろしい闇の連鎖が起きています。

どうすれば、悲惨さを生み出す、こうした野蛮の言説を乗り越えることが出来るのか。著者は「『野蛮の言説』論の重要な教訓は、私たちが、時代の社会常識にかなりの程度規定された価値観に基づいた判断を下している、ということです」と述べています。つまり、野蛮の言説は、私たちの常識の中に潜んでいるというわけです。その上で、著者はこのように述べます。すこし長いですが引用します。

〈常識〉を疑うべきだというメッセージはともすれば陳腐に聞こえるかもしれません。しかし言いたいことは、個人の主観的な判断であると考えているものでさえ、時代の影響を被るがゆえに、自分の考えが社会でよく言われていることの是認でしかないことがありうる、つまりは自分の意見ではなく他人の積み上げてきた意見を繰り返しているにすぎない可能性が否めないということです。ではどうすればよいか、ということですが、これは自分の意見や判断の根拠を絶えず検証するよう努力するしか、〈常識〉を相対化する方法はありません。それが、与えられた情報から作り出されてきた共通感覚を疑う唯一の方途だと考えます。
 この共通感覚を相対化しえたときに初めて〈常識〉をより良い方向に向けて変容させるという理念を抱くことができるのではないでしょうか。〈野蛮の言説〉が〈常識〉に宿っているならば、その〈常識〉を変えることで、〈野蛮の言説〉を無効化することは、不可能ではありません。

著者はアドルノの「否定的弁証法」を本書内で高く評価していたので、相対化を通じた常識の変換を期待しているのだと思います。私自身、次はアドルノの本に挑戦しようと思いますが、直感的に著者の方法論はかなり難解であり、実践面では弱いように感じます。

では、いかなる方法が可能なのか。それは、いまの私には分かりませんので、これからの課題としたいと思います。ただし、常識を相対化するだけではなく、判断するための基準はどうしても必要だと思います。その基準を問わなければ、ポストコロニズムが陥った相対化のための相対化のループに陥るだけなのではないでしょうか。

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