読書録「もうひとつの声で」
【読書録 「もうひとつの声で」、キャロル・ギリガン著、川本隆史ほか訳、初版1982年、当訳刊2022年、風光社】
心理学の話で、倫理の発達には二つの理論がある、という話を聞き、ケアに関わる話だったので読んでみました。
初版が刊行されたのが1982年、欧米でもまだまだ女性の権利や社会的地位が低く、男性優位の頃でした。フロイトから始まった心理学のついても、女性は男性に比べると発達が劣っている、という判断をされていたといいます。
その中で、著者のギリガンは、女性の心理の発達は、決して男性に劣っているということではなく、発達の仕方が男性とは違うのだという説を本書で提唱しています。
男性は「正義の倫理」をもち、公正や平等を中心とし、権利と規則に対する理解を軸として、自律的な仕事の生活を送れることを目的とします。
対して女性は、「ケアの倫理」をもち、ケアの活動を中心とし、責任と人間関係に対する理解を軸として、愛とケアの相互依存を目的とします。
男性は、親密さに危険を感じ、女性は競争や業績重視の状況に危険を感じる。
男性は「自己と他者が同等の真価を有する存在として扱われ、力の違いに関わらず物事が公正に進む」ことを理想とし、女性は「すべての人が他人から応えてもらえ、受け入れられ、取り残されたり傷つけられる者は誰ひとり存在しない」ことを理想とする。(p.174)
男性は各人の権利から出発し、自他の相違を社会的に経験する中で、寛大さの重要さを認識し、ケアの必要性に至る。女性はケアの責任から出発し、人間としての統合や自己犠牲の欺瞞、高潔さの承認の重要性を認識し、搾取や傷を受けない権利の必要性へと至る。
ギリガンの議論から明らかになるのは、男性的な「正義の倫理」と女性的な「ケアの倫理」というのは、相互補完的なものということです。
正義は抽象的であり、形式的。対してケアは、文脈的で個別具体的。
正義は客観的な評価が可能で、平等性と互恵性の論理を明らかにする。ケアは、原因と帰結について理解が可能で、同情と寛容を伴う。
いかに自立しても、そこに何らの感情がなければ無に等しい。いかに愛情があっても、屹立とした自己がなければ飲み込まれてしまう。
正義は骨格。ケアは血肉。そんな感じでしょうか。
当社でも、この本を使って「ケアとは何か」話し合ってみました。現代において、必ずしも男女として明確に分けられない。性差ではなく個人差として捉えていくのが良いのではないかという話になりました。
ちなみに、女性が抑圧された当時の社会で、女性の声をいかに拾い上げるかについて、ギリガンは「妊娠中絶」の当事者の女性に焦点を当てました。
女性たち自身が選択しなければならない。それまでの女性のしきたりとの葛藤。そして、自分自身、周囲の人、赤ん坊、いずれかの人が犠牲にならざるを得ない。そんな状況において、女性はいかなる声を発するのか。
受け身や控えめであることはできない状況の中で、女性の声を拾い集めて、本書の骨格ができたといいます。
このような着眼もものすごいことだと思うとともに、誰の声を聞けば、自分が知りたいと思う声を聞くことができるのか、考え抜くことの大切さを感じます。
また、アメリカの大統領選で1つの争点となっている「ロウ・ウェイド判決」の再考について、女性の権利という観点から、いかに「妊娠中絶」が重要であるかの裏返しでもあります。
自己犠牲が強制された時、健全な心理や道徳の発達は抑圧されるのではないか。自由が確保されて、初めてそれらは可能になるのではないか。
しかし、必ずしも、今のアメリカが心理や道徳の面で発達しているとは言えないのではないかということも、議論を複雑化させているのでしょう。