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介護とは? ―高口光子さんのセミナーから―

高口光子さんのセミナー、
「プロのターミナルケア」を聴きに行ってきました。

正直、かなりインパクトが強かった。
介護でもここまで出来るんだという衝撃。
また介護とは何か、改めて確認させてもらいました。

高口さんは、自分の信念を本当に話しているなと感じました。
とてもかっこよかったです。

自分の中にある「何かおかしいのでは」と感じる、
その感受性を大切にしてほしいと話されていました。
きっと高口さんは自分自身がそうされてきたのだろうなと思います。

そんなお話の中から、大切と感じた部分を、
自分自身の解説や体験、考えも交えながら、
いくつかここに掲載させて頂きます。

介護の基本

「介護の基本は、『自分』がされて嫌なことは、お年寄りにしないということです。
 なので、『自分』という『私』がいなければ、介護は成立しないんです。
 介助者本人の想いや考えがなければ、成立しないということなんです。」

これは、本当にその通りだと感じます。
本人がどのような介護をしてほしいか、
介護の世界ではあまり言ってくれないのです。

もちろん、文句は言われるのですが、
どこが具体的にどう悪くて、どのように訂正すればよいかまで、
教えてくれるお年寄りはかなり少ない。

三好春樹さんは、「共同決定の原則」を提唱していますが、
介助者側から、「こうしませんか」という提案をしない限り、
お年寄りはどんどん活力が失われていく。

実際に手伝いに行った老人ホームでは、
ベッドに寝たままギャッチアップを上げて、
介助してもらって食事をとっているお年寄りがいた。
本人がこうしたいから、とスタッフは説明していた。

試しに椅子に移ってもらい、自分の手で食事をしてもらったら、
嫌がっていたけれども自分で出来ている様子だった。
その様子を他のスタッフにも見てもらった。

しかし、自分がいない日はギャッチアップで食事をとるだけであったようだ。
結局、ある日、急に食欲が落ち、熱を出した。
誤嚥性肺炎にかかり、入院されることになってしまったのだ。

「自分なんて死んだ方がよかった」
そう言うお年寄りもいる。
「何のために生きているんだろう」
そう問いかけているお年寄りもいる。

介護の世界では、本人の意見をそのまま反映することは、
決してよい介護にならない。
「『自分』だったら、こうしたほうがいい」というような、
思いや考えがなければならないのだ。

―自分だったらオムツでウンコ・シッコはしたくない。
―自分だったら寝たままで食事はとりたくない。
―自分だったら寝たまま入浴はしたくない。

もちろん、そのお年寄りの状態になってみないと分らないこともあるかもしれない。
けれど、こうした感覚がとても大切なのだ。

そうでなければ、お年寄りはどんどん弱っていく。
不思議なほどに。
それは、以前出来たことが出来なくなっていくことによって、
プライドが奪われ、生きる気力を失っていくからかもしれない。
これを介護によって支えることが出来れば、
逆にもう一度、お年寄りたちは生きる気力を取り戻すのだろう。

介護の目指すもの

「介護職員にとって、共通の価値観、共通の認識が必要です。
よく、研修などでは『QOLの向上』などと言いますが、
外国語の略語です。よくわからない。
かといって『生活の質』などと訳してみても、何も解決しないですね。
そもそも、『あなたの生活の質は…』などと人に言うことは不遜じゃないですか?」

「現場は、一番大切なことのために仕事をしたいと思う。
それは言葉にならないし、目に見えない。
しかし言葉にしなければ伝わらないのです。」

「『その人らしい生活』、これは理解しやすいですね。現場にも受けました。
では、『その人らしい生活』とは何か?
その人にとって、『あたり前の生活』のことです。
よく眠ることであり、朝は誰と会うからと考えながら髪をといだりする。
ご飯を食べて、おしっこをして、人と会う。
こうした『あたり前」を提供することが、介護の基本中の基本なわけです。」

近年は、ユマニチュードだったり、タクティールケアだったり、
介護のごく一部の側面がスポットライトが当たっていますが、
介護の基本中の基本は、「あたり前の生活」を支えることです。

全ての人に共通するあたり前の生活、
それは、食事・入浴・排泄という三大介護に他なりません。

この基本を馬鹿にして、ユマニチュードやタクティールを一生懸命学んでも、
何の意味もないということなんですね。

もちろん、食事・入浴・排泄のあり方は、
人それぞれ違うわけです。

味の濃いのが好きな人もいれば、薄いの好きな人もいる。
パンがいい人もいれば、ごはんがいい人もいる。
毎日朝の献立が違わなければ飽きてしまう人もいれば、
同じほうが落ち着くと言う人もいる。

そうした個々人の習慣、こだわりの違いを大切にしながら、
食事や入浴、排泄のケアを行うことが、個人の尊厳であり、
人を大切にするということの基本なのです。

その上で、あたり前の生活として、
春には庭の桜の花を眺めてきた人もいます。
正月には家族でおせちをつつくのが恒例だった方もいます。
近所の仲良しとお茶を飲むことが好きだった方もいます。

この辺りも、「あたり前」として重要な部分として
講演会でも触れられていました。

しかし、実際に施設としてここまで提供出来るところは
少ないのではないでしょうか。
こうした介護を受けるお年寄りが「あたり前」として外出することを、
当社は出来るようにしたいのです。
そのことを、高口さんは強く気づかせてくれました。

介護職が果たす役割

「―今までオムツだった人が、トイレでしたウンコを見てうれしい。
―ターミナルの人が一口でも食事を摂ってくれたことがうれしい。
―お風呂に入って気持ちよさそうな顔を見ることがうれしい。
このことが、そのお年寄りが生きていくこと自体を
『うれしい』と考えたことになるんです。」

「食事、排泄、入浴という方法論を使って、お年寄りに対して、
『一人じゃない』ということを伝え抜くこと。
それが、介護職の仕事であり、日常業務なのです。
一人じゃないということが、
『生の肯定感』『主体の再獲得』『自分の居場所』へと、
繋がっていくのです。」

「そもそもお年寄りは、たった一つの理由のために、施設に入るのです。
『子どものため(補注:家族のため)』これ一つです。
本来なら、この年になって面倒を見てもらって集団生活をするなんて、
お年寄りにとってはそれこそ死んだ方がましと感じるかもしれない。
しかし、子どものため、恥を忍んで入っていくわけです。
大いなる断念と呼んでもいいと思いますが、
そうした底の底から呼び戻してあげることを、介護職が担うのです。」

これは、施設の介護でとくに当てはまることだと思います。
いや、自分も入職したときに最初から言ってほしかった(笑)
少し概念的に過ぎるので、
何も経験していない段階では理解できなかったかもしれませんが。

介護職員が何が出来るかということ、
これほど明確に説明してくれた人はいままでいなかった。

また、どんなに口下手でも、勉強が苦手でも、
このお年寄りの変化を喜んであげられる人こそが、
お年寄りを一番元気にしてあげられるということも良く分ります。

もちろん、考えを言葉にして、工夫して伝え、
みなに広めていくことが出来なければ、
組織としての成長はないので、
その先に進むためには勉強して、話の仕方も覚えなければならないでしょう。

さて、今日は『介護』について、セミナーの内容をまとめました。
次回は、『ターミナルケア』について、まとめてみたいと思います。

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