ターミナルの際の関わり -髙口光子さんのセミナーから―
先日のセミナー「プロのターミナルケア」の内容の続きです。
今回はターミナルの際の、ご家族との関わり方について。
「家にいても、同じことが」という一言
「入所された後にご家族と信頼関係が出来なければ、
事故の際は報告の辛いやりとりが続くことになります。
説明と謝罪が続いていきます。
『家にいても、同じようなことが起きるからね』
このように言ってもらえる信頼関係を築くことが出来るか。
同じようにターミナルのときにも、
『家にいても、同じことが起きるから』
と言ってもらえるのかどうかです。」
そう、介護施設で働いて感じたのは、ご家族の影響力の大きさです。
前章でも書きましたが、ご家族のために、お年寄りは施設に入る。
ご家族は、施設に入った親御さんがどうなるか、
気になる方が多いです。
たとえば、親は自分と離れて暮らしていて、
月に1回ぐらい訪問して面倒を見てきたけれど、
とうとう弱ってきてしまった。
しかし自分には自分の家庭があり、
一緒に暮らすことは難しい…。
そういった困難の中でご家族も施設を選ばれることが多いのですから、
気にされるのがあたり前なのでしょう。
施設の職員も、ご家族が来られることが、
身だしなみや整容に気をつける外部的な刺激になっていました。
入居された後に、その方らしさが守られているのか。
―ひげはそってもらえているか。
―目やにはたまっていないか。
―服は自分のものをきちんと着ているか。
入居する前のお年寄りにとっての、
「あたり前」がきちんと守られているのか、
ということに敏感になっているわけです。
そのことをきちんとやってくれていると感じると、
ご家族は施設に対して信頼してくれるようになります。
そうして、事故が起きたとしても、家でも起こるから、
気にしなくていいよと声をかけてくれるようになる。
死に際してもいっしょだと髙口さんはおっしゃいました。
普段の介護と、事故時と、死とは、家族の中では繋がっているのですね。
死とともに向かい合う
「『死に方を家族が決められませんから、施設も決められません』
なんてことは通用しません。」
「親が死ぬということに、子どもは初めて直面するのです。
死に近づくまでお年寄りをずっと見てきた介護現場が、
そこに話が出来なければ、アドバイスが出来なければ、
なんのために介護職員が存在するのか」
「チューブで生きるということは、
お年寄り本人にとって苦しいこともあるかもしれない。
息子は、娘は、それを認識してなお、生きていてほしいと思うのか。
その覚悟を家族に決めてもらうためにも、しっかりと話をする必要があるのです。」
「『ほんの一口食べるためにも、ご本人は本当に頑張ってこられました。
だけど、その一口も食べられなくなって。
もう命の終い方に入っているじゃないかなと、私は思います。
チューブを使うと、ご本人も苦しいと感じることもあります。
私は、もう十分に、頑張ってこられたと思います。』
医療を受けるということが、苦しみにもなるということを、
介護職はしっかりと伝えなければなりません。」
ターミナルに関して、私はまだまだ経験不足です。
そのため、この辺りは疎いところがあり、想像し、考えていくしかありません。
人が最終的に死ぬということは、窒息と脱水と、髙口さんは話されていた。
息が出来なくなり、活力も失われていく…やはり、苦しいんだと思います。
この段階で、救命救急をするということは、どういうことか。
医療は命を救うこと、長らえさせることに全力を尽くします。
その反面、その処置によって患者ご本人がどう感じるのか、
苦しむのかということにまで目を向けることはありません。
―食べられない人に胃ろうをつくって食べさせること
―呼吸できない人に気管切開をつくって呼吸させること
―鼓動を打てない人に薬を注射して電気ショックを与えること
もちろん、病気の良くなる見込みのある方なら、
その苦しみに意味もあります。
しかし、老衰に、自然と死に近づいていった方、
これ以上よくなる見込みのない方に、その苦しみの意味はあるのか。
家族もそれを認識しなければならない。
その上で、本人の苦しむ姿を見ることになろうとも、
「おれのためだけに長生きしてくれ」
とご家族自身が全て責任を負うのだということになれば、
もうこれは反対出来ることではなくなるわけです。
私としては、ご家族だったとしても、
やはり本人の尊厳をもっとも考えるべきだと思います。
しかし、「尊厳」のある死とは何か。
これも大変に難しいテーマですね。
ご家族とともに、介護職員もその方一人にとっての死と向き合って、
考えていかなければならないのではないでしょうか。
私も今後、考えていかねばなりません。